LOGIN「皇帝陛下、皇帝陛下。いずこに?」
私は廊下を歩き、皇帝を捜していた。
「皇帝陛下。梅皇貴妃が隼の餌を持ってきましたよ」
しーんとしている。廊下をすたすたと歩く音と私の呼び声。それだけが響く。
中国の王宮は静寂を好むのか。
騒がしさとは無縁のようだ。
「だれかおらぬか? 皇貴妃じゃ。梅妃が皇帝を捜しておる」
中国の王宮で暮らす私の身分は皇貴妃。
現世の主婦から貴族へと華麗に転身、異世界転移して第二夫人の体になった。
姿は現生の私とほぼ変わらない。
現世に夫を残して未練はないが、皇帝の愛がほしい。
夫似の召使にそそのかされた。
皇帝の寵愛を得たいなら、皇帝が愛玩する隼の喜ぶニワトリを園庭に放ちなされ、と。
単純な私は、それがいいと思った。
生きたニワトリをゲットしに、厨房の裏へ行った。
そこには大きな竹籠があり、中に生きたニワトリがたくさんいた。
首尾よく生きた一羽を生け捕りにした。
さすがは私。ワイルドな性癖は健在だ。
ただ、手にニワトリを持つ姿を夫似の召使と白虎王子に見られ、少々気まずかった。
ところで、隼の居場所が分からない。
皇帝に教えていただこうと、皇帝を捜して広い王宮内を歩き回った。
廊下を歩き、皇帝の寝所に辿り着いた。
以前、皇帝の寵愛を受けた思い出深い寝室だ。
自然と足が向いた。
だが、そこに皇帝はおられなかった。
残念だ。
別の部屋を探した。
手にしていたニワトリがバサバサと羽ばたいて邪魔だ。
それを持つのが鬱陶しくなり、庭に放り投げた。
どのみち、隼が見つけて飛べない鳥を始末するだろう。
解放されたニワトリは、バタバタと宙を羽ばたき、着地した。
そして、せわしなく庭を縦横無尽に走り回った。
皇帝が政務を行う場所に移動した。
移動しながら、皇帝の顔と姿を思い浮かべた。
ああ、たまらない。
口の中に唾がたまる。
政務部屋に召使が二人いた。
そのうちの、背の高い召使に訊ねた。
「皇帝は今、ここにおいでか」
「いいえ。ついさきほどまではおられました。今、用を足しておられます」
「ここで待っておれば、戻って来られる?」
「そうでございます。陛下はもうじきここへ」
「分かったわ」
私は部屋の外で待った。
「やっと皇帝に会えるわ」
期待に胸が高まり、心は打ち震えた。
皇帝にお会いできたら、庭をご覧いただこう。
哀れな獲物が何も知らずに走り回っている。
そのうち、隼がやって来るに違いない。
舞い降りた隼が野性むき出しでニワトリを襲い、食べる。
その様を目にした皇帝は、隼の元気な姿を見て、喜ばれるだろう。
皇帝は、ニワトリを放った人間を訊ねる。
それが私だと分かると、とても満足した笑みを浮かべる。
そして、今夜、ご満悦の皇帝に強く抱かれるんだわ。
そこまでのストーリーを思い浮かべ、ちょっと陶酔の境地に浸った。
不意に、庭から、ギャーと獣の声が響いた。
庭に面した廊下から見えた。
たしかに、皇帝の飼っている隼が空から舞い降りた。
隼は、その鋭利な
鋭く硬い
結果を知りたい気持ちと、ニワトリの哀れな最期を見届けたくない気持ち。
相反する気持ちが心の中で渦巻いた。
結果、手で視界を遮った。
あまり、血まみれのニワトリは見たくなかった。
ギャアー、オオーン。
ニワトリの断末魔が庭に轟く。
隼は冷徹にニワトリを殺した。
ようやく手をどかした。
赤い血を滴らせ、隼は獲物の肉を旨そうについばんでいた。
ゴッ、ゴッ、ゴッ。隼の短い鳴き声が耳に届いた。
命を奪うまでは声を立てず、殺したあとで食べるときに鳴き声を発した。
それは、ご馳走にありつけた喜びと興奮の表現のように思えた。
「それでいいのよ。こうなるために、ニワトリを庭に放ったんだもの」
しばらくして、背の高い召使が現れ、私を呼んだ。
「梅皇貴妃。すぐに皇帝陛下のところへお越しください」
「え? むしろ私の方が皇帝を探していたのですが。皇帝は今、いずこに?」
背の高い召使は一礼し、こう言った。
「今から私が案内いたします。ついてきてくださいませ」
召使に連れられ、また広い屋敷を移動することになった。
すぐに庭に面した部屋に着いた。
そこでイスに腰かけた人物がいた。
皇帝である。
菱形の帽子に紐飾りをぶら下げている。
いつ見ても、
ああ、今すぐにでも抱かれたい。
皇帝はイスに深く腰かけ、庭を見つめていた。
私に気付くと、こちらを見た。
少し、表情が曇っている。
「梅皇貴妃。そなた、ずいぶんなことをしでかしおったのじゃな」
「皇帝。何のことを仰って?」
「この者たちから聞いたぞよ。食用のニワトリを庭に放ったと。いったい、どういうことじゃ?」
皇帝の口調は明らかに怒気を含んでいた。
皇帝の後ろに、白虎王子と夫似の召使が床に正座していた。
彼らは顎を引き、こちらを見ていた。
私はすべて、理解した。
やはり、ニワトリを持つ姿を見られたのはよくなかった。
「ああ、しまった。あの二人がいる。ということは、私がニワトリを庭に逃がしたのを密告したのか。クッソ」
心の中で後悔した。
もう遅かった。地団駄を踏みたかった。
ダメモトで弁解してみた。
「いえ、違います。私はただ、皇帝陛下のお喜びになる顔を見たい一心で、料理人からニワトリを借りて隼の餌にしようと……」
言葉の語尾にかぶせるように、厳しい皇帝の言葉が耳をつんざいた。
「聞きとうないわ。愚か者。朕の大事にしておる隼にはちゃんと飼育係がおる。一日に二度、餌を与えておる。つまらぬことをするではない」
ふだんは温厚な皇帝にしては、たいそうな怒りようだ。
愛するお方の怒りと叱責の言葉が、体に刺さった。
私は唇を噛み、下を向いた。とても悔しかった。
夫似の召使にそそのかされたこと。
周富徳に似た料理人に、ダメだ、これは食事に使う、と断られたこと。
食用と分かっておきながら、隙を見てニワトリを生け捕ったこと。
皇帝への説明の前に、庭に放ち、こうして誤解させてしまっていること。
すべてがだれかに仕組まれた罠にかかったようだ。
だれ? そう。
そこで横を向き、狡猾に笑う召使。夫似の召使が悪いのだ。
「す、すみません。私の考えが浅はかで」
「もう、よい。下がれ。料理人には言うておく。そなたを第二夫人から外す」
「陛下。お許しください」
「ダメじゃ。そなたは窃盗罪の罰を受けよ。しばらく、牢屋で頭を冷やせ」
「な、なんと!」
皇帝の命令に私を顔を上げ、驚いた。
自分のしたこととは言え、ニワトリ一羽で窃盗罪。牢屋に投獄とは──。
その言葉を待っていたかのように、武器を携帯した屈強な衛兵二人がずいと前に出た。
二人は私の両側から羽交い締めにし、私を連れ去った。
「こ、皇帝。後生です。どうか、お許しをー!」
振り向いて叫んだ。
皇帝は憤然と立ち上がり、その部屋を出て行った。
庭では、まだ隼が旨そうにニワトリの肉をついばんでいた。
おまえが喜んで、皇帝も喜ぶのではなかったのか。
隼にこぼしても、しかたのないことだ。
皇帝は喜ぶどころか、たいそう怒っていた。
これでは、しばらく私をお許しにならないだろう。
私の後ろで、イッヒッヒヒと笑い声が聞こえた。
夫似の召使だ。
あれほど、私の身の回りをせっせとしてくれた召使。
彼は皇帝の寵愛を引き合いに出し、私の気持ちを思いやってくれた。
そんな風に思った私がバカだった。
私は罰せられても構わない。
けれど、それですむのか。
もしかして、よからぬことが起きなければよいが。
さまざまな感情と邪推が頭の中を嵐のように駆け巡った。
心を落ち着けたときには、すでに石段を一段ずつ降りていた。
石の冷たさと、じめじめした湿気が気になった。
「さ、入れ」
皇貴妃より身分の低いえいへいは、皇帝の命令だからか、ずいぶんと横柄な態度だった。
暗くて冷たい地下牢に閉じ込め、衛兵は鍵をかけた。
鉄格子の牢屋に入れられた。
この世界に来て、初めてのピンチだ。
石組みの床は座ると冷たそうだ。
しばらく立っていた。
「だれか、来て。私を外へ出しなさい」
懇願と命令の言葉が地下牢に木霊する。
だれも助けには来ない。
鉄格子には、大きな錠前がかけられていた。
それを外すことができれば脱出できる。
しかし、錠前は硬くて頑丈だ。
ここは、逃げ出す気力を奪う堅牢さだ。
白虎王子には罪はない。
おそらく、たまたまニワトリ生け捕りの現場に夫似の召使とともに居合わせたのだろう。
そして、自分の
もしくは、夫似の召使がすべてを皇帝に話し、白虎王子に同意を求めたとか。
王子はうんうんと、ただ頷いたとか。
いずれにせよ、私は食用ニワトリの窃盗罪で、地下の牢屋に何日もの間、幽閉された。
私は神に祈った。
「どうか、神よ。私を救いたまえ。罪の一部は反省するが、本当に悪い人間を裁いてくれ」
気づくと私は伸びていた。そこはベランダの手前。床に仰向けになり、白い天井が見えた。床の先の掃き出し窓は開いていて、冷たい風が入り込む。風は乾いてとても冷たい。起き上がって、窓を閉めた。「こ、これって……」そこは前前世の私の家。梅本香里の住む家だった。その当時の記憶が今、つながった。前の晩、夫の浮気が原因で夫とケンカをした。翌朝、互いに無視したままで朝の支度をした。夫がUSBメモリを忘れ、そこでもひと悶着。嫌な夫が出社し、やれやれとラジオをかけ、紅茶を飲んでほっこりした。「そうよ。ラジオと洗濯物」ラジオの音がようやく耳に入った。「今朝、こんなニュースが飛び込んできましたね。一月八日の午前七時半。ついさっきです。都内のビル工事現場で強風が吹きました。強風によって看板が落ち、下を通る歩行者の体に当たりました。リスナーの皆さん、くれぐれも風の強い日は気を付けてくださいね。歩行者はケガをしましたが、警察によると軽傷とのことです。では、ここで音楽のリクエストをかけましょう──」そうよ。このDJの声。このラジオを聴きながらベランダに出た。洗濯物を干そうとして、鳥が額にぶつかった。今、たしかに元の体に戻っている。梅妃や女官ヒナとして生きた記憶も残っている。そして、始まりと終わりのきっかけを作ったのは鳥。鳥が額にぶつかって気絶した経緯もはっきりと覚えている。「どうして、気絶して昔の中国王朝なんかでロマンスを経験したのかしら?」ひとり呟いても、だれにも時空の旅を説明できる人はいないだろう。あちらの経験は膨大な量の事件や思い出に基づいていた。それは心に深く根を張っていた。「ま、いいわ。危ない目に遭ったけど、ちょっと得した気分ね」異世界に転移と転生したのは事実であり、その事実は夫には緒にしておこう。私はほくそ笑んだ。床に落ちている洗濯物を拾い上げ、物干しざおに丁寧にかけた。干しながら、しみじみとあの思い出や出会った人物たちを思い返した。あんな経験、お金を払っても、そうそうできやしない。中世あたりの中国王宮。その第二夫人に転移して、豪奢な暮らしを堪能した。皇帝に抱かれ、純粋なロマンスにうっとりした。悪い召使の計略にはまり、罪を犯した。そして、地下牢に投獄された。救出され、召使のクーデターは失敗。悪い奴らは死んだ。生活
女官ヒナとして、まだ生きていける。私は安堵した。幻の芙楽の助けで、女官として生かされた。その先、芙楽が私の前に現れる機会はなかった。前世で彼を裏切った形なのに、死んだ彼は私を咎めなかった。不思議なもので、「私を平気で裏切ったあなたには、最高の罰で償ってもらいますから」という呪縛の言葉も、二度と頭に浮かばなかった。引き続いて王宮の仕事を続けた。李妃の部屋で着替えを手伝っていたとき、李妃からこんな風に言われた。「ヒナ。いくつになったの?」「私ですか? 十八です」「そう。今が女としていちばんいい頃ね。魅力的よ」「ありがとうございます」「その着物、ヒナに上げるわ」「え?この緑の着物でございますか」「そうよ。それ、もう飽きてしまったわ」「本当によいのですか」「いいわよ。私からの贈り物よ。明日暇を上げるから、町にそれを着て行くといいわ」「承知しました。ありがとうございます」私は李皇貴妃の着替えを手伝いながら、心の中はうれしさで一杯だった。李妃からいただいた緑の着物を大事に畳んで小脇に抱え、仕事の合間に配房で袖を通してみた。青銅鏡を立てかけた。鏡の向こうに映る、着物を着たもう一人の私。とてもきれいだった。すごいわ。これが私のなのね。みすぼらしい普段の着物とは全然話にならない。まるで格が違う。豪華でいて上品な女性に見せてくれる着物。うれしくて涙ぐんだ。親に見せてあげたい。一生ものの衣装だ。「これを着て、明日町を歩くのね。うれしいわ。天に舞い上がりそう」有頂天になり、その場で軽く飛び跳ねた。着物を大事に畳んで配房のタンスの抽斗に丁寧にしまった。とてもうれしくて、気分のいい状態は長く続いた。頼んでおいた自分の洗濯物を取りに、ある部屋へ向かった。その部屋に着いた。部屋で自分の着物を受け取った。部屋を出た。洗濯物を手にして配房に帰る途中だった。廊下を歩いていた。向こうの角に皇帝がいた。年老いた皇帝は背中を丸め、何かを眺めている。庭に舞い降りたのは、先日の鳥だ。「皇帝は長らくペットとして、隼という名の鳥を飼われている。そんな風に聞いていたわ。じゃあ、あの鳥が隼なのね」皇帝は隼を腕に止まらせ、パッと腕を上げた。空に舞い上がった隼は空を一直線に切り裂き、あっという間に高みへ上昇して見えなくなった。私はな
意識がブラックアウトした。少したった。周囲が明るくなり、気が付いた。「あれ?私、生きてるわ」気づいて、生存を認識した。つまり意識が私の体に戻っていた。「こんなことって、あるのかしら?ちょっと信じられないわ」芙楽に刺されたからこそ、意識が肉体から飛び出したのではなかったか?そこに芙楽も、天馬も、槍もなかった。すべてが消えていた。あの走馬灯の主役たちは、何だったのだろう。私は屋敷の廊下に倒れていた。まだ起き上がれないが、体はわずかに動く。呼吸もできる。手で顔や体を触ってみた。顔。体。健康そのもので傷一つない。結果的に、私は命拾いをした。代わりに、私を殺そうとした郭貴妃が倒れていた。うつ伏せの状態で倒れていた。彼女の背中には大きな傷があった。その傷から、大量の血が流れていた。一方の竜光皇子は口から血を吐き、ゆっくりと膝をついた。目を見開いていた。郭貴妃に折り重なるようにして、竜光皇子も倒れた。私は殺されると思っていたけれど、私の代わりに二人の悪い親子が絶命した。もしや──。幻である透明な芙楽は私を刺さずに貫通し、向きを変えて郭貴妃と竜光皇子を槍で突き刺し、あの世へ送ったのか。そうかもしれない。そうとしか言いようがない。私は凶器を持ってない。私が二人を殺したわけでないのは明白だ。二人は「私の守護神」に殺されたのだ。そんな風に自分を納得させた。「芙楽様。ヒナを守ってくれて、本当
殺された。だれも助けてくれなかった。そう思った。しかし、そんな風に思うのはまだ早かった。寸前で助かった。死ぬと思った刹那に、走馬灯が見えた。走馬灯は死ぬ間際で見るもの。その走馬灯の世界で、空から何かがこちらに向かって来る。鳥、か。いや、もっと大きい。馬?空から来たのは、天馬だ。天馬に乗った人。その人は、芙楽王だった。「芙楽様」女官ヒナとして、なぜ彼の名前を、姿を知っているのだろう。我ながら不思議だ。ちゃんとした理由などない。ただ、なんとなく、前世に深い縁があった、と頭で分かった。芙楽は透明な体で馬に乗っていた。クラゲのように透き通り、輪郭だけがはっきりしていた。馬にはペガサスのように大きな翼が生えていた。そんな風な天馬だ。天馬に乗って駆けてきて、芙楽は手に槍を持っている。芙楽の乗った天馬は、地上に舞い降りた。芙楽は馬上で槍を構え、私に向かって叫んだ。「私を平気で裏切ったあなたには、最高の罰で償ってもらいますから」その台詞も聞き覚えがあった。台詞が頭の中でガーンと響いた。女官ヒナとしての記憶に前世の梅妃の記憶がかぶさる。もう何が何だか分からない。でも、思った。もはや、最高の罰を受ける運命から逃れられない、と。私は芙楽を平気で裏切ったんだわ。あの戦いで、芙楽は賀の王宮に突入した。芙楽は吊り天井の罠にはまった。天井に付いた杭により、八つ裂きになって死んだ。梅妃としての私には、どうしようもなかった。その後で、馬奈を見捨てて賀に寝返った。それが死んだ芙楽にとって無念であり、「平気で裏切った」ことになるのね──。その台詞を聞き終わるや、槍の刃先が私の心臓めがけて刺そうとする。槍が心臓を突き刺した。郭貴妃の短刀はどこへ行ったのか。短刀は視界から消えた。郭貴妃の姿も見えない。短刀が体に入るよりもかなり前に、芙楽の持つ長い槍が私の体を貫いた。ああ、これでいいのね。平気で裏切った私。そんな女にふさわしい、最高の罰。女官ヒナとして、だれかを愛したことはなかった。しかし、女同士で醜いケンカをし、相手を殴りつけた。竜光皇子にも暴力をふるった。私は女官として、イケナイ女だ。この槍の一突きをもって、この世から消える。短い生涯を終えるのね。私の父。私の母。ごめんなさい。親不孝な娘で、
熱が下がり、どうにか女官の仕事に戻った。一般女官との対決に勝ち、私に敵意をむき出しにする女官はいなくなった。「ヒナ。李妃様がお呼びだ。鷺の間へ行け」私の部屋に召使が来て、そう声をかけた。午前中に詩吟の予定が入っていた。詩吟に出る李妃様を鷺の間へ案内したのは、二時間ほど前だった。「何かあったのかしら」私は首をひねった。詩吟の会はいつも二時間では終わらない。たいていお昼頃までかかるのは通例である。んだ。李妃の用事だと信じ、急ぎ足で廊下を歩いた。前から竜光皇子が一人で歩いて来た。私は頭を下げ、廊下の脇にどいた。竜光皇子は私の前を通り過ぎた。私は皇子の来た方向へ歩こうとした。まさにそのときだった。通り過ぎたはずの竜光皇子が引き返し、急に私の背後に回った。えっ!?私は狼狽した。この前、夜の庭でこの皇子は私を羽交い絞めにしたばかり──。あり得ぬことだが、その再現が行われた。竜光皇子は、またもや男の強い力でねじ伏せ、私を羽交い絞めにした。「やめてください!大声を出して、人を呼びますよ!」「フフフ。やれるものなら、やってみよ」彼は小声でうそぶいた。そして、不敵に笑った。そこへ、タタタタタと足音が聞こえた。廊下の前方からだれかが走り寄って来る。何と!相手は年を取った郭貴妃である。目を吊り上げ、こちらを睨んでいる。その手に短刀を握り締めている。両手を短刀に添え、胸の下で固定している。初老の郭貴妃は、廊下で羽交い絞めに遭っている私をめがけ、まっしぐらに走り寄る。「や、やめてー!」叫び声がかすれた。「ヒナ。いえ、梅妃の生まれ変わりめ。いざ、覚悟!」郭貴妃はたしかにそう叫んだ。郭貴妃が至近距離に近づき、目の前に短刀がキラリと光った瞬間だった。前世の記憶がワーッと見えない波になって押し寄せた。三皇子が乱立した経緯。王宮の人間関係が分断され、三つの勢力に分かれたこと、趙士良の仇討ちに遭い、前世の私が斬り殺されたこと。郭貴妃と対立し、恨みを持たれたこと。さまざまな因縁があった。だからこそ、郭貴妃親子は私を殺そうとしている。彼らは、私が因縁の梅妃の生まれ変わりだと見抜いていたのだ。まんまと郭貴妃親子の計略に引っかかった。また死ぬのか。諦めた。諦めて、目をつぶった。悲しくて、目に涙がたまった。い
女官がすっと腕を出した。反射的によけた。ふっと背後に人気を感じた。その気配は本物だった。私を後ろからがっちりと羽交い締めにした。前にいる女官と後ろの人間。二人だ。挟み撃ちに遭った。前の女官は紐のようなものを手にしていた。洗濯、あるいは裁縫の女官か。両手で紐を強くひき、水平にピンと張った紐が目の前にある。背筋がゾクゾクし、額に汗がにじんだ。女官は、いきなり私の首に紐を押し付けた。喉を圧迫され、私は喘いだ。ウッ、グ、グ。息が苦しい。女官の手をなんとか払おうとした。女官はなおも、ピンと張った紐を引いて、グイグイと喉を締め付ける。本当に苦しい。紐をどけようとするも、羽交い絞めで手が使えない。目をつぶった。これが女官のすることか。怒りがこみ上げた。タイマンなら負けないのに。涙が滲んだ。後ろで動きを封じられ、反撃できない。それでも、やってやる。怒りと悔しさが体を動かした。私は前で勢いをつけ、その反動を利用して、片足を思い切り後ろに振り上げた。「痛っ!」後ろの人間が呻いた。上手くいった。うまい具合に、足が相手の股間に入った。相手は怯んだ。私は手をほどいた。自由になった手で、羽交い絞めにした人間の頭をしこたま殴った。満月がその人の顔をうっすらと照らした。竜光皇子──。直感で分かった。王宮に来て、四人の皇子の顔は知っていた。獅雷皇子が次期皇帝の最有力候補であり、残りの三人が後塵を拝しているのを知っていた。なぜ竜光皇子が私にひどい仕打ちをするのか。そのときは全く見当がつかなかった。月光に照らされた竜光皇子の顔は醜く歪んだ。細い目が見開かれた。目つきはおぞましかった。よほど私に恨みを持っていたのだろう。皇子は股間を押さえ、悶絶していた。驚いて攻撃の手が止まった女官は、紐を捨てて私を殴りつけた。私も殴った。女同士の意地のぶつかり合いだ。お互いに数発殴り合った。しつこい女官に対し、私は相手の髪の毛を掴んで思い切り引っ張った。女官は頭髪を押さえ、悲痛な声を出した。「やめて、やめて」うろたえる女官。髪を引っ張る私。女官の訴えにかまわず、髪を掴んで引きずり回した。とどめとばかり、狙いをつけて女官の腹にパンチを見舞った。憎しみのこもったパンチは確実に女官を痛めた。三発目のパンチが女官の急所に
中国の王宮で暮らし、しばらくたった。 梅皇貴妃と呼ばれる私は、第二夫人として、宮中でそれらしく振る舞った。 その身分を受け入れ、貴婦人らしく振る舞いさえすれば、何不自由のない豪奢な生活を送れた。 現世ではただの主婦だったから、気持ちのいいことこの上ない。 本来はその世界の住人でなく、中国だの、宮中だの、何も知らない。 知らなくても、ここの人は皇貴妃だと言い、すり替わったことを疑わない。 元のままだと信じる人がいるなら、演じるだけだ。 お陰で中国の王宮生活にも慣れ、かなりいい気になっていた。 私は貴婦人である。皇貴妃という身分は、皇帝の愛を受け入れる二番目の夫人らし
どういうわけだか、中国の王宮のような場所で暮らすようになった私。しかも、都合のよいことに、皇貴妃という身分でいられる。とても嬉しい。中国の王宮の生活にもかなり慣れてきた。私は貴婦人である。相手として対象になる男性がいるなら、それは皇帝だろう。皇帝とは寝所で二人きりの時間を過ごした。とても感慨深い、特別な時間だった。皇后とは風呂でご一緒した。さすがに皇后だけあって気品にあふれ、息を呑むほどに美しかった。私もそうありたいものだと思った。何かしたければ、お付きの召使か女官を呼べばいい。どんなささいなことでもしてくれる人たちだ。彼らを使うことに抵抗がなくなった。それだけ、信頼を置いてい
どういうわけだか、中国の王宮のような場所で暮らすようになった私。しかも、都合よいことに、皇貴妃という身分にあるのだから、とても嬉しい。私は貴婦人である。相手として対象になる人がいるなら、それは皇帝をおいて他にいないだろう。何かしたければ、お付きの召使か女官を呼べばいい。実際、女官に服の着替えや、ベッドメイクをしてもらった。恥ずかしかったが、トイレを頼んだときもあった。彼らを使うのにも、すっかり慣れた。二十畳ほどの広い部屋に一人ぽつんといると、ちょっと寂しい。体に少しむずがゆさを感じ、入浴したくなった。召使を呼んだ。「風呂に入りたいのじゃ」「はい。準備して参ります。しばし
昔の中国風王宮に来た私。タイムワープってやつなのか。難しい理屈に頭を使う気はない。そんな高級な頭脳すら持ち合わせてない。優雅な音色の笛と弦楽器。ゆるやかに、部屋に吹き渡る風。とても優雅な世界で、いつまでもこの屋敷にいたい、住みたいと願った。天蓋ベッドの部屋から出た。薄くて緑の絹の着物を着る私は、食堂を探した。板張りの廊下を歩く。まっすぐ進み、角を曲がり、またまっすぐ行く。突き当たりに左右の廊下があり、右に行く。あちこちに部屋があり、どこを曲がったのか、よく分からない。それにしても、お腹が空いた。お腹が空いたのに、だれも呼びに来ない。まさか、寝室で食事のわけもないだろう