INICIAR SESIÓN「皇帝陛下、皇帝陛下。いずこに?」
私は廊下を歩き、皇帝を捜していた。
「皇帝陛下。梅皇貴妃が隼の餌を持ってきましたよ」
しーんとしている。廊下をすたすたと歩く音と私の呼び声。それだけが響く。
中国の王宮は静寂を好むのか。
騒がしさとは無縁のようだ。
「だれかおらぬか? 皇貴妃じゃ。梅妃が皇帝を捜しておる」
中国の王宮で暮らす私の身分は皇貴妃。
現世の主婦から貴族へと華麗に転身、異世界転移して第二夫人の体になった。
姿は現生の私とほぼ変わらない。
現世に夫を残して未練はないが、皇帝の愛がほしい。
夫似の召使にそそのかされた。
皇帝の寵愛を得たいなら、皇帝が愛玩する隼の喜ぶニワトリを園庭に放ちなされ、と。
単純な私は、それがいいと思った。
生きたニワトリをゲットしに、厨房の裏へ行った。
そこには大きな竹籠があり、中に生きたニワトリがたくさんいた。
首尾よく生きた一羽を生け捕りにした。
さすがは私。ワイルドな性癖は健在だ。
ただ、手にニワトリを持つ姿を夫似の召使と白虎王子に見られ、少々気まずかった。
ところで、隼の居場所が分からない。
皇帝に教えていただこうと、皇帝を捜して広い王宮内を歩き回った。
廊下を歩き、皇帝の寝所に辿り着いた。
以前、皇帝の寵愛を受けた思い出深い寝室だ。
自然と足が向いた。
だが、そこに皇帝はおられなかった。
残念だ。
別の部屋を探した。
手にしていたニワトリがバサバサと羽ばたいて邪魔だ。
それを持つのが鬱陶しくなり、庭に放り投げた。
どのみち、隼が見つけて飛べない鳥を始末するだろう。
解放されたニワトリは、バタバタと宙を羽ばたき、着地した。
そして、せわしなく庭を縦横無尽に走り回った。
皇帝が政務を行う場所に移動した。
移動しながら、皇帝の顔と姿を思い浮かべた。
ああ、たまらない。
口の中に唾がたまる。
政務部屋に召使が二人いた。
そのうちの、背の高い召使に訊ねた。
「皇帝は今、ここにおいでか」
「いいえ。ついさきほどまではおられました。今、用を足しておられます」
「ここで待っておれば、戻って来られる?」
「そうでございます。陛下はもうじきここへ」
「分かったわ」
私は部屋の外で待った。
「やっと皇帝に会えるわ」
期待に胸が高まり、心は打ち震えた。
皇帝にお会いできたら、庭をご覧いただこう。
哀れな獲物が何も知らずに走り回っている。
そのうち、隼がやって来るに違いない。
舞い降りた隼が野性むき出しでニワトリを襲い、食べる。
その様を目にした皇帝は、隼の元気な姿を見て、喜ばれるだろう。
皇帝は、ニワトリを放った人間を訊ねる。
それが私だと分かると、とても満足した笑みを浮かべる。
そして、今夜、ご満悦の皇帝に強く抱かれるんだわ。
そこまでのストーリーを思い浮かべ、ちょっと陶酔の境地に浸った。
不意に、庭から、ギャーと獣の声が響いた。
庭に面した廊下から見えた。
たしかに、皇帝の飼っている隼が空から舞い降りた。
隼は、その鋭利な
鋭く硬い
結果を知りたい気持ちと、ニワトリの哀れな最期を見届けたくない気持ち。
相反する気持ちが心の中で渦巻いた。
結果、手で視界を遮った。
あまり、血まみれのニワトリは見たくなかった。
ギャアー、オオーン。
ニワトリの断末魔が庭に轟く。
隼は冷徹にニワトリを殺した。
ようやく手をどかした。
赤い血を滴らせ、隼は獲物の肉を旨そうについばんでいた。
ゴッ、ゴッ、ゴッ。隼の短い鳴き声が耳に届いた。
命を奪うまでは声を立てず、殺したあとで食べるときに鳴き声を発した。
それは、ご馳走にありつけた喜びと興奮の表現のように思えた。
「それでいいのよ。こうなるために、ニワトリを庭に放ったんだもの」
しばらくして、背の高い召使が現れ、私を呼んだ。
「梅皇貴妃。すぐに皇帝陛下のところへお越しください」
「え? むしろ私の方が皇帝を探していたのですが。皇帝は今、いずこに?」
背の高い召使は一礼し、こう言った。
「今から私が案内いたします。ついてきてくださいませ」
召使に連れられ、また広い屋敷を移動することになった。
すぐに庭に面した部屋に着いた。
そこでイスに腰かけた人物がいた。
皇帝である。
菱形の帽子に紐飾りをぶら下げている。
いつ見ても、
ああ、今すぐにでも抱かれたい。
皇帝はイスに深く腰かけ、庭を見つめていた。
私に気付くと、こちらを見た。
少し、表情が曇っている。
「梅皇貴妃。そなた、ずいぶんなことをしでかしおったのじゃな」
「皇帝。何のことを仰って?」
「この者たちから聞いたぞよ。食用のニワトリを庭に放ったと。いったい、どういうことじゃ?」
皇帝の口調は明らかに怒気を含んでいた。
皇帝の後ろに、白虎王子と夫似の召使が床に正座していた。
彼らは顎を引き、こちらを見ていた。
私はすべて、理解した。
やはり、ニワトリを持つ姿を見られたのはよくなかった。
「ああ、しまった。あの二人がいる。ということは、私がニワトリを庭に逃がしたのを密告したのか。クッソ」
心の中で後悔した。
もう遅かった。地団駄を踏みたかった。
ダメモトで弁解してみた。
「いえ、違います。私はただ、皇帝陛下のお喜びになる顔を見たい一心で、料理人からニワトリを借りて隼の餌にしようと……」
言葉の語尾にかぶせるように、厳しい皇帝の言葉が耳をつんざいた。
「聞きとうないわ。愚か者。朕の大事にしておる隼にはちゃんと飼育係がおる。一日に二度、餌を与えておる。つまらぬことをするではない」
ふだんは温厚な皇帝にしては、たいそうな怒りようだ。
愛するお方の怒りと叱責の言葉が、体に刺さった。
私は唇を噛み、下を向いた。とても悔しかった。
夫似の召使にそそのかされたこと。
周富徳に似た料理人に、ダメだ、これは食事に使う、と断られたこと。
食用と分かっておきながら、隙を見てニワトリを生け捕ったこと。
皇帝への説明の前に、庭に放ち、こうして誤解させてしまっていること。
すべてがだれかに仕組まれた罠にかかったようだ。
だれ? そう。
そこで横を向き、狡猾に笑う召使。夫似の召使が悪いのだ。
「す、すみません。私の考えが浅はかで」
「もう、よい。下がれ。料理人には言うておく。そなたを第二夫人から外す」
「陛下。お許しください」
「ダメじゃ。そなたは窃盗罪の罰を受けよ。しばらく、牢屋で頭を冷やせ」
「な、なんと!」
皇帝の命令に私を顔を上げ、驚いた。
自分のしたこととは言え、ニワトリ一羽で窃盗罪。牢屋に投獄とは──。
その言葉を待っていたかのように、武器を携帯した屈強な衛兵二人がずいと前に出た。
二人は私の両側から羽交い締めにし、私を連れ去った。
「こ、皇帝。後生です。どうか、お許しをー!」
振り向いて叫んだ。
皇帝は憤然と立ち上がり、その部屋を出て行った。
庭では、まだ隼が旨そうにニワトリの肉をついばんでいた。
おまえが喜んで、皇帝も喜ぶのではなかったのか。
隼にこぼしても、しかたのないことだ。
皇帝は喜ぶどころか、たいそう怒っていた。
これでは、しばらく私をお許しにならないだろう。
私の後ろで、イッヒッヒヒと笑い声が聞こえた。
夫似の召使だ。
あれほど、私の身の回りをせっせとしてくれた召使。
彼は皇帝の寵愛を引き合いに出し、私の気持ちを思いやってくれた。
そんな風に思った私がバカだった。
私は罰せられても構わない。
けれど、それですむのか。
もしかして、よからぬことが起きなければよいが。
さまざまな感情と邪推が頭の中を嵐のように駆け巡った。
心を落ち着けたときには、すでに石段を一段ずつ降りていた。
石の冷たさと、じめじめした湿気が気になった。
「さ、入れ」
皇貴妃より身分の低いえいへいは、皇帝の命令だからか、ずいぶんと横柄な態度だった。
暗くて冷たい地下牢に閉じ込め、衛兵は鍵をかけた。
鉄格子の牢屋に入れられた。
この世界に来て、初めてのピンチだ。
石組みの床は座ると冷たそうだ。
しばらく立っていた。
「だれか、来て。私を外へ出しなさい」
懇願と命令の言葉が地下牢に木霊する。
だれも助けには来ない。
鉄格子には、大きな錠前がかけられていた。
それを外すことができれば脱出できる。
しかし、錠前は硬くて頑丈だ。
ここは、逃げ出す気力を奪う堅牢さだ。
白虎王子には罪はない。
おそらく、たまたまニワトリ生け捕りの現場に夫似の召使とともに居合わせたのだろう。
そして、自分の
もしくは、夫似の召使がすべてを皇帝に話し、白虎王子に同意を求めたとか。
王子はうんうんと、ただ頷いたとか。
いずれにせよ、私は食用ニワトリの窃盗罪で、地下の牢屋に何日もの間、幽閉された。
私は神に祈った。
「どうか、神よ。私を救いたまえ。罪の一部は反省するが、本当に悪い人間を裁いてくれ」
「それでさ。いま、王宮はたいへんなのよね」すっかりおばさんモードだ。おばさん同士の井戸端会議のノリで、私は相手を前に喋った。「ふむ。王宮がそんな風に混乱しているのですか。私はまるで知りませんでしたよ」相手は目を丸くした。「内輪の話だから、外へ漏れないのかもしれないけどさ。ちょっとしたスキャンダルよ。いま、こうしてあなたに喋るように、いずれ世間にも知れ渡るわ。王宮の世継ぎ争いの醜さが」目の前にいる崙伖は、お茶の器を握ったまま、ようやくそれに口をつけた。ゆっくりと茶を啜った。ここは、以前利用した茶楼である文人崙伖とこの場所で落ち合った。今夜の夕食は抜いてもらった。一人お忍びで、町まで足を伸ばした。「たしかに皇帝の位を狙おうとする人物が複数出てくるのは分かるし、興味深いですね。私の書く白話小説の題材に採り入れてみましょうかね」「そうよ。それ、いいわ。絶対に面白くて売れるわよ。何せ、現実ですら、ときに汚い、ときにあざとい言動が雅な王宮でまかり通るのよ。派閥が三つもあって、互いが牽制し合う。その力学で王宮の未来に黄色のランプが灯ったとかさ」「はて?黄色のランプとは?」崙伖は首を傾げた。「あ……、ああ。言い間違えた。黄色のランプじゃなくて、何て言うの? 危険な状況を味方に知らせる灯りのようなものって」「それを言うなら、天灯でしょうな。夜間に味方へ危機を伝える灯籠です。空へ飛ばす灯籠なので天灯と呼ぶのです」崙伖は文人らしく意味を解説してくれた。「さすが博識ね。その天灯よ。王宮の未来に暗雲が垂れ込め、危機を告げる天灯が夜空に放たれた。そんな場面って、小説に描いたら盛り上がるんじゃない?」「はい。それはもう書きがいがありますよ。次の次くらいに、それを使わせてもらいますよ」崙伖は懐からくしゃくしゃになった雑紙を出し、それを丁寧にテーブルの上に広げた。携帯している袋から出した筆で、言葉をサササッとメモした。こんなに興奮して喋る美女を前にして、文人というのは如才なく会話をかわし、隙あらば自らの仕事にいかそうとする。ある意味で尊敬に値する。「私もね。こう見えて、皇帝のお子を産んだのよ。獅雷皇子と名づけたわ。獅雷皇子はね。竜光皇子や双渦皇子よりも優秀なの。キリリとした眉に可愛らしい口元で、こう言うの。『この名前はなに?』とか、『どうして空は青いの?
「梅皇貴妃。私です」夜に男の人が訪ねて来た。それだけでちょっとうれしい。自室にいた私は招き入れた。「どうぞ。入って」声でわかった。恭郡王である。「お久しぶりです。お元気でしたか」恭郡王が訊ねる。「私は変わらず元気よ。恭郡王も元気そうね」「はい。どうにかして梅妃とお会いしたかったのですが、諸事情が許さず、こうして今夜になりました」「別にいいのよ。気にしてないわ」「それにつけても、王宮内は三つのグループに分かれ、世継ぎの座を争っておりますな」「ええ。私もそのグループの一員よ」「かねてから、私が何か梅妃のお力になれたらと思っておりました。直接お会いしたかったのです」恭郡王は私に会いに来た理由を明かした。「うれしいわ。恭郡王にそこまで思ってもらえるのなら。そこにいて話を聞かれるとマズいわ。もっと近くにいらして」恭郡王を私の座る近くに呼び寄せた。彼の上品で涼し気な顔が近づく気配がした。自室の灯りは消していた。暗がりで男がそばに来て、つい手が彼の顔に伸びた。私は彼の頬に手を当て、優しく撫でた。自分の顔をさらに近づけ、目を閉じた。二人は接吻した。甘美な口づけがあの晩を思い起こさせた。冷めていた愛が再燃するのか、と半分期待した。唇を離すのが惜しかった。恭郡王の方が口づけを終わらせた。互いに沈黙し、私は長い髪を触った。所在なく着物を手で撫で、相手の出方を窺った。暗い中、二人の男女はじっとしていた。恭郡王はとくに何もしてこない。ただ、暗い部屋でかすかに彼の息が音を立てた。どうしてよいかわからず、何か言おうとして言いあぐねた。意を決し、口を開いた。「恭郡王にどこまで話したかしら? 私の身の上を」「そうですね……。私自身の話ばかりしましたね。梅妃の過去は宮廷内の噂程度にしか存じませぬ」そうだった。競渡で舞い上がった私は、彼を質問攻めにし、イケメンをぐいぐいと自分の領域に引きずり込んだのだった。「じゃあ、最初から話すわ」「わかりました。話せる範囲でどうぞ。私はただ聞いております」「私は王宮の第二夫人として、皇帝の寵愛を受けていたわ。それで幸せだった。その状態がずっと続く。幸せな日々を送れる。そんな風に思ったのが間違いよね。悪い召使は私に目を付けた。私を唆し、私は窃盗罪で地下牢に幽閉された」「ああ、れいのあの事件ですね」
三人の皇子は生まれながらにして、皇帝の世継ぎ争いという看板を背負わされた。竜光皇子、獅雷皇子、双渦皇子。郭貴妃がいて、私がいて、皇帝の妹がいる。だれも譲らなかった。三人の母親は、懸命に我が子──郭貴妃の場合は従妹の子だと噂されたが──を王宮内でアピールする日々が続いた。皇帝はまだ若い。現実的に皇帝の位を禅譲するのは何十年も先の話だ。ただ病没や戦死の可能性がある以上、万一の事態に備えて次を決めるには、早いに越したことはない。三皇子の乱立で、その判断が難しくなった。世継ぎ問題は混迷を極めた。はたして、皇帝は三人の子を我が子だと思っただろうか。それを確かめる機会もなくはなかったが、面と向かって訊きづらかった。三皇子が皇帝の本当の子どもなのか。それは重要であるにもかかわらず、真偽の事実さえ確たる証拠もなく、判断のしようがなかった。各人の思惑が絡み、王宮は揺れた。皇帝はその状況に対して、昼夜を問わず悩まれた。深く嘆いていた。皇帝を世話する召使たちの口から何度も聞いた。「どうしたものかなぁ。朕の世継ぎだなどと、三人の女たちがかまびすしく主張して」皇帝はお付きの召使にそんな風にこぼした。私は違う召使からその話を人づてに耳に入れた。皇帝の悩める姿を慮ると、たいそう哀れで心が痛んだ。皇帝は自室に私を呼んだ。私は床に伏せた。「梅妃よ。おまえも三皇子問題の渦中の人物じゃな。朕は深く憂慮しておる。三人の皇子がすくすくと成長して大人になったとき、互いをどう思うのか」「さようにございますね。私は自身の皇子がすんなりと皇帝の座に就くとは思っておりませぬ。親の贔屓目であっても、やはり三人、いや白虎王子も含めた四人の中で、いちばん思慮深く、賢明で、文武に秀でた人物。国を治めるのにふさわしい器の持ち主が、次の皇帝として選ばれるべきだ。そんな風に思います」「そうじゃな。朕もそのように思う。そうなるのが筋で、もっとも王宮内で支持され、国民も納得するはずじゃ。しかし、物事は得てして理想通りに行かない。今の乱立状態がすぐに解消される見込みはないし、王宮内の過熱ぶりに朕はうんざりしておる」「お気持ち、お察しします。もう少しの辛抱です。いつ収束するのか、私にもわかりませぬが、皇帝は皇帝らしくあられませ。それがいちばんでございます。常に気高く、主君としての
郭貴妃の竜光皇子に、私の獅雷皇子。王宮は白虎王子をさしおいて、二番目と三番目の皇子のどちらが世継ぎ競争を勝ち抜くかに注目が集まった。互いに皇帝の子ではないのに、それだからこそよけいに熱を入れた。それぞれの男児を次の皇帝にし、ゆくゆくは最高の絶対権力を手に入れ、王宮をほしいままに支配したい。執念と野望。それに燃える私たちは、周囲も巻き込んで激しく火花を散らした。廊下で鉢合わせれば、当然のようにケンカを売った。「ちょっと。向こうへ行くのよ。邪魔だわ。どきなさいって」私は郭貴妃に噛みついた。「何よ。そちらこそ、どいたらどう? 私には大切な用事があるのよ」「どかないわよ。どくもんですか。そっちが先に下がるか、わきによけなさいよ。どちらの位が上だと思ってるの? 第二夫人に命令するな」「はあ? この際、身分の上下なんて意味をなさないのよ。そもそも、竜光皇子が先に生まれたのよ。先に生まれたグループに優先権があるわ。早くどいて。蹴り飛ばすわよ」郭貴妃も口では負けてない。両者は前に進み出た。顔を近づけ、ガンを飛ばした。あなたが召使の元愛人で、クーデターを成功させるために色仕掛けで皇帝を唆そうとした悪女よ。その黒歴史は塗りつぶせないわ。心の中で彼女をなじった。二人が睨み合ってると、二人の皇子が泣き出した。若い女官の腕に抱かれた獅雷皇子は、廊下中に響くくらいの大声で泣きわめいた。一方、別の女官があやしていた竜光皇子も獅雷皇子に負けないくらいの鳴き声を上げ、周囲をうろたえさせた。「見なさいよ。あなたが意地悪するから、うちの皇子が泣いてるじゃないの。責任とりなさい」郭貴妃の顔をビシッと指さした。「私、意地悪をした覚えはないわ。なによ、責任って? 笑わせるわ。そちらが無茶を言うから、竜光皇子が泣き止まないのよ」そこへ皇后が通りかかった。郭貴妃の周囲の人たちは通路をあけ、私たちも廊下を皇后に譲った。皇后は私のところを通り過ぎたあと、こちらを振り返って諭した。「無駄な勢力争いで王宮を騒がせないでちょうだい。賢明な皇帝陛下がしかるべき時期に次の皇帝をお決めになる。私はそんな風に思ってます。赤ん坊を泣かせてまで意地を張り合う親は母親失格ですよ。もっと子どもを慈しみ、深い愛情を注ぎなさい」皇后にしては珍しく感情を表に出し、二人を𠮟
確たる証拠はないが、きわめて怪しい臭いのプンプンする皇子が誕生した。郭貴妃が産んだとされる竜光皇子である。王宮のあちこちで、郭妃と竜光皇子に関する噂やデマがまことしやかに語られた。私は、皇帝の従兄にあたる恭郡王に、夢の中で抱かれた。恭郡王は、たしかに王宮にいる実在の皇族だ。食堂で見かけたことはあるが、近くで話をした覚えはない。なぜ、いま、恭郡王の存在が──。私の夢にそのような人物がでてくる。夢だから理由は不明だ。また何かの暗示なのか、と首をひねりたくなる。恭郡王は長身のイケメンだ。皇帝も若くてイケメンだが、顔について言うならば、恭郡王の方がワンランク上である。「もし近くに来たら、こちらから話しかけてみようかしら」私の中のいけない気持ちが、重い車輪のゴロリと転がり出すように、のそのそと動き始めた。私の気持ちは出会いを引き寄せた。恭郡王に話しかけたのは、彼の夢を見てから一週間後だった。ちょうどその時期に、華やかな催しが外で行われた。競渡(ドラゴンボートレース)である。王宮の裏に広大な池がある。金琉池である。金琉池の上にロープを張り、その中で龍をかたどったボートを浮かべ、スタート地点から池の端まで行って折り返し、グルッと反転して元の場所へゴールする。それを数艇のボートで勝負を決める競走である。池の外では、楽団が太鼓やドラをにぎやかに打ち鳴らす。長いボートに乗った二十数人の男たちが、櫂でボートを一斉に漕ぎ出し、ゴールするのを競う。ちょうど現世でいうところのペーロン祭である。私もそのレースを池の手前で、かぶりつきで見物した。ボートにはそれぞれに色の旗をつけていた。どれでもよかったが、私は緑色の旗をつけたボートを応援した。「頑張れー! ファイトー!」池の水面を男たちの乗ったボートが滑るように進む。猛烈な勢いで櫂を合わせて必死に漕ぐ。その勇姿に感動し、エールを送った。それぞれのボートはとても長い。まっすぐに漕がないと横を走るボートに接触してしまう。しかし、漕ぎ手はみな慣れたもので、各ボートを真っ直ぐに進めた。ボートはスイスイと速く進んだ。応援していると、ふと気づいた。私の隣の隣に恭郡王がいるではないか。「チャンス!」心の中でガッツポーズした。この世界に来てから、こんな風に理想の恋愛をいくつしただろう。それを追い求める体質
男児を身籠った私だが、劉妃はチョーに関して私をなじった。心身ともに不安定となり、懐妊してしばらくしてから、流産してしまった。悔しさのあまり、劉妃を憎んだ。恨みに思い、いつか復讐してやろうと考えた。それでも、その方法や計画が頭に描けず、宙ぶらりんになった。一方で不穏な動きが進行していた。劉妃と郭貴妃は従姉妹の関係である。その立場を悪用した。何度皇帝と寝ても男児を授からない郭貴妃は、焦っていた。彼女は悩んだ末に、町で生まれた男児を士良と劉妃の間に生まれた男児と取り替えようと画策した。郭貴妃は親しい召使に命じて町にやり、作戦を実行した。召使は町医者のベッドで寝かされていた劉妃の赤ん坊を、別のカップルが生んだ別の男の赤ん坊と見事に取り替えた。医者も常に監視しているわけではなく、気づかなかった。召使は毛布で男児をくるみ、王宮に持ち帰った。劉妃には何も知らせず、劉妃はよその子を我が子と信じて育てているという。その話は召使の間で極秘事項として囁かれ、私の耳にも届いた。皇帝との間に子どもができない郭貴妃の考えそうな悪だくみだ。強引に奪った劉妃の男児を皇帝との夜伽で授かった子どもだ、と王宮内で言いふらした。「その子こそ、新しい正統な世継ぎよ」愚かな郭貴妃はそんな風に主張し、その主張を譲らなかった。「何と、まあ! 本当に劉妃の子なの?」私は最初から信用してなかった。自分が皇帝の男児を流産してしまったやっかみではない。郭貴妃の顔を見れば、とうてい真実を語っているようには見受けられなかった。「本人は、私のときみたいに有頂天ではしゃいでいるけれど、女官から聞いた話では、懐妊のタイミングと子どもが授かった日にちがどうもズレているらしいのよね」女官と話をし、その部分だけ声をひそめた。表面上は祝福しながら、本音は郭貴妃の「狂言」に騙されぬよう、気を引き締めた。もしも、男児は別の人の子どもで、根拠のないのに「皇子、皇子」と騒いでいるのなら、きっとどこかでボロが出て追及されるだろう。私は冷静に事態を見守った。郭貴妃はその男児を「竜光皇子」と名づけた。一部では、皇子の存在を疑問視する声も上がり、郭妃はむきになって声高に「正式な世継ぎ」と連呼した。王宮の外に劉妃。王宮の中に郭貴妃。天敵とライバルが二人もいた。先が思いやられた。二人の悪い女に
中国の王宮で暮らし、しばらくたった。 梅皇貴妃と呼ばれる私は、第二夫人として、宮中でそれらしく振る舞った。 その身分を受け入れ、貴婦人らしく振る舞いさえすれば、何不自由のない豪奢な生活を送れた。 現世ではただの主婦だったから、気持ちのいいことこの上ない。 本来はその世界の住人でなく、中国だの、宮中だの、何も知らない。 知らなくても、ここの人は皇貴妃だと言い、すり替わったことを疑わない。 元のままだと信じる人がいるなら、演じるだけだ。 お陰で中国の王宮生活にも慣れ、かなりいい気になっていた。 私は貴婦人である。皇貴妃という身分は、皇帝の愛を受け入れる二番目の夫人らし
どういうわけだか、中国の王宮のような場所で暮らすようになった私。しかも、都合のよいことに、皇貴妃という身分でいられる。とても嬉しい。中国の王宮の生活にもかなり慣れてきた。私は貴婦人である。相手として対象になる男性がいるなら、それは皇帝だろう。皇帝とは寝所で二人きりの時間を過ごした。とても感慨深い、特別な時間だった。皇后とは風呂でご一緒した。さすがに皇后だけあって気品にあふれ、息を呑むほどに美しかった。私もそうありたいものだと思った。何かしたければ、お付きの召使か女官を呼べばいい。どんなささいなことでもしてくれる人たちだ。彼らを使うことに抵抗がなくなった。それだけ、信頼を置いてい
どういうわけだか、中国の王宮のような場所で暮らすようになった私。しかも、都合よいことに、皇貴妃という身分にあるのだから、とても嬉しい。私は貴婦人である。相手として対象になる人がいるなら、それは皇帝をおいて他にいないだろう。何かしたければ、お付きの召使か女官を呼べばいい。実際、女官に服の着替えや、ベッドメイクをしてもらった。恥ずかしかったが、トイレを頼んだときもあった。彼らを使うのにも、すっかり慣れた。二十畳ほどの広い部屋に一人ぽつんといると、ちょっと寂しい。体に少しむずがゆさを感じ、入浴したくなった。召使を呼んだ。「風呂に入りたいのじゃ」「はい。準備して参ります。しばし
昔の中国風王宮に来た私。タイムワープってやつなのか。難しい理屈に頭を使う気はない。そんな高級な頭脳すら持ち合わせてない。優雅な音色の笛と弦楽器。ゆるやかに、部屋に吹き渡る風。とても優雅な世界で、いつまでもこの屋敷にいたい、住みたいと願った。天蓋ベッドの部屋から出た。薄くて緑の絹の着物を着る私は、食堂を探した。板張りの廊下を歩く。まっすぐ進み、角を曲がり、またまっすぐ行く。突き当たりに左右の廊下があり、右に行く。あちこちに部屋があり、どこを曲がったのか、よく分からない。それにしても、お腹が空いた。お腹が空いたのに、だれも呼びに来ない。まさか、寝室で食事のわけもないだろう







